付記・平成承禎

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 龍頭にも似た能登半島が、日本海の荒海に突き出る。
 その内懐に抱かれ、海と山に囲まれた半農半漁の基盤上に、観光と商工業が複合する人口約
6万人の市、それが私の故郷です。
 私のこの愛する郷里は古より歌に詠まれ、「長安の春」匂う万葉の歌人「大伴家持」ゆか
りの地であります。
 対岸の立山連峰が、四季折々に色彩を変え、美の蜃気楼を映し出す。
連山の峰々に朝日が昇る頃、町内の真言宗「上日寺」(奈良時代白鳳十年
681年創建)の参
道に繁る、天然記念物指定・樹高
36m・幹回り13m・樹齢1300年の大銀杏を黄金に染ながら
、社稷の「朝日神明社」と、裏山の公園辺りを、真っ先に照らし出す。
 その上日時参道、傍の行田池(別名・龍神池)を見やりながら石段を登ると、本殿伽藍の
正面中央頭上に「龍」の彫り物、四方支柱、頭上高く木彫の獅子が八方を睨み本尊を守護す
る。
 本殿までの階段数は、計
64、境内の一隅、釣り鐘堂の高欄、南北に木彫の獅子、又梵鐘
胴回りの、四方に獅子が鋳され、頭部の乳頭の数は
64である。毎年41718の両日、参
道両側に屋台が軒を連ね、“雨乞い”の大祭「ゴンゴン祭り」がやって来ます。近在近郷の
力自慢が境内の、この鐘付き堂に集まり、特別に用意された松の生木を担ぎ競って、この梵
鐘を打ち鳴らす。この鐘の音が雨乞い“龍”を呼び、鋳された四匹の獅子がゴォーンゴォー
ンの“獅吼”となって市中の邪気を払う。
 子供の頃、遊び場であった寺の、そこかしこに施された獅子を数え、天印「寶」との奇し
く因縁を感ぜずにはおれない。境内の霊気を心地よく吸いながら、昼なお暗い杉木立ちを通
り抜け一段の高台に出ると、丹精に整備された公園の景観が辺りを一変させる。この朝日山
公園中央壇の上に、神仙伝説に連なる「神武天皇」像が、堂々の威容を放ち富山湾を一望す
る。
 その脚下、湾の港近く“唐島”が浮かぶ。その名称にひめた伝説が遥かなロマンを誘いな
がら、海の神「弁天様」を祭る。
 左手、北の山並みに、かつての修験道のメッカ「石動山」、右手南に「二上山」が腰を据
える。
 この北に伸びる石動山系の中腹、長坂という部落の一隅に“長寿の滝”があり、その昔“
仙人”がこの滝に打たれ持病を治したという伝説が今も伝わる。そして部落の長坂神社には
、約
500年の歴史を誇るという、当地最古の獅子頭で、「龍」と「獅子」が合体した「箱獅
子」
・別名“龍獅子”が奉納され、市文化財として大切に保存される。そして石動山に隆盛
を誇った密教神社の一部は、現在、山裾の中田地区に移築され、名称を“道神社”として、
往時を忍ばせる。

 この南北に伸びる半島山並みの対岸に、雄大なパノラマ・立山連峰が広がる景勝の地です。
 湾内の定置網で取る厳冬の出世魚「鰤」、このぶりを呼ぶ師走の“雷”を“ブリおこし“
と言い、冬の到来と、その縁起魚を呼び寄せる冬の吉報として、雷の第一声“天の轟”を待
ちこがれ、吹き荒ぶ師走の空にその第一声が鳴り響くと漁師たちは喚声を上げ早朝勇んで出
漁する。毎年
714日「祇園祭」に絢爛豪華な山車が雅な祇園囃子に乗って市中央大通りに
繰出す。山車には中国「聖帝」が鎮座し、高欄間や腰絵に「雷紋」「牡丹」「鳳凰」「龍」
など華麗に施され、胴幕に「唐獅子」「唐子」が舞い、私の誕生日を祝う。
 又、実りの秋ともなると、村や町自慢の“獅子舞”が、五穀豊饒、商売繁盛を祝いイヤサ
ー、イヤサー(弥栄)の掛け声に乗り、勇壮、華麗に宙を舞う。
「寶」との不思議な縁を抱かずにはおれない、、。
生家に祀る仏像は室町時代の作風と伝えられ、中学時代、富大の教授が訪ねこの仏像につ
いて、祖父光則と話し込むのを、誇らしげに聞いていたのを、覚えている。
 言い伝えによれば鎌倉期、当地仏生寺に移り住み、与八郎、与兵衛下って代々「与三兵衛」の
屋号を名乗る豪農であった。江戸元禄
8年の皆済状に記された先祖の納税石高は、8石8斗3升9合
そして代々石高を上げ文化13年の納税石高2926升である。
 皆済状に記された江戸期の石高数値の堅調な推移を観ると、賢明であった祖先の姿が見え
てくる。

江戸寛永8年(元禄忠臣蔵以前)皆済状 高木家古文書と資料
 そして明治末頃には、馬25頭以上奉公人多数を養う豪農であった。
 これらの先祖を記す貴重な資料は、今も鞍骨藤井家に残るという。
 その資料は、日の当たらぬ郷土史研究に身を捧げられた、当地池田・花水に住まう川淵先生
永年にわたる調査研究によるものである。
 川淵先生は郷土芸能獅子舞の名手、大御所であった。
 そして本書表紙「寶」と巻末「三陽」「平成承禎」の三印は、本書のため快諾戴いた児島先生
作で、川淵先生と児島先生のお父さんとは、郷土史研究の師弟の間柄であったと伺う。
 児島先生は私の願いを快諾戴き記念の「寶」となった三印を、見事に彫り上げて戴いた。

 川淵先生・児島先生に、この場を借り、改めて深甚の意を表するものです。
 祖父が眠る小高い共同墓地、その眼下に広がる湿田と潟は、奈良時代、万葉の歌人家持が
船を浮かべ歌を詠み、遊覧した入江であった。
 明治の一時期、曾祖父三郎が、この潟まわり36町歩を買い受けたと文献は記す

 当地仏生寺農協の三代組合長として揚げられる先祖の遺影に当時の全盛が忍ばれる。
 米商の失敗とその後の変転、没落の悲運を胸に、戦後父正俊は炭屋を興し、のち呉服屋
(母式部)
に転業傍らの行商で往時を忍ばんと、ただ闇雲に古美術集めに精をだしていた。県西
部にあたるこの地は、加賀百万石の影響下、書画骨董の関心は高く、私の生活の中に、無意識か
つ自然的に溶け込み今日に至る。そんな環境の中で21歳より家を出、独立し裸一貫、職歴四転
五転し現在に至る。
 言葉に尽くせぬ幾山川を振り返る時、万感の思いが、胸をこがす。
その人生の出会いの中
で忘れてならない人がいる。臨済宗・国泰寺管長 稲葉心田管長(故人)と重度身障者「野
の草学園」期波園長ご夫妻である。
 管長との短い“無言”の対話、そして期波園長ご夫妻の献身しておられる御姿に、言葉に
尽くせぬ啓示を受けた。
 お二人は、釈迦の聖地を共に旅する、感嘆合い照らす仲であったと伺う。期波園長は平成12
年春帰らぬ人となられた。
 重度身障者に身を挺す生涯でした。深く深く哀悼の意を表さずにはおられません。
 ・・・・。
 今、お一人、私の命の恩人であり、終生の師であるお方、その人の名は能田「辰也」
『大漢和』の語訳は、まさに“北極星”であった。天地人を極めた「潘師正」「辰」龍の御方
である。人は言葉を知る、しかし“言葉の真理”を知る人は希である、師は遥か雲上
の御方で
す。
 身を削る物心両面の助力、そして深い理解とご指導を賜った。
 師なくして本書の完遂はなかった・・・。
 天印「寶」との遭遇は、天地運行、必然の定めを感ぜずにおれない。「寶」との遭遇は

の愛する故郷の風土と、来し方の多くの人達との命の出会い、そして祖先、神仏の御加護と
導きがあったからであろう。かって、代々の屋号が与三兵衛・曾祖父が三郎・私の名が健三
12年前名付けた称号が三陽である。まさに天・地・人「三」才が渾然一体の意志力と化し
、天印「寶」解明の大任を命じたのであろう。


    雪月の 窓により添う 寒椿 
 
                 書斎・獅子窟庵にて
                      平成9年1月5日




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拙著「寶」本「あとがき」より

承禎の軌跡