第8章6・尊号「聖文」
『放蕩都市』(文献136-211頁)の終りに、当時流行った歌に合わせた替歌の歌詞が載っています。
「宝を弘農の野に得た、弘農が宝を得たよ。漂裏に船車はにぎやかに揚州に銅器は多い。
三郎は殿に当たって坐り得宝歌を唱うのをご看だよ」。歌のなかの“三郎”とは「玄宗皇帝」を指すと
言います。
何やら、陜州桃林県に玄元皇帝老子が示現して、宝符が発見され、桃林県を霊宝県に改名した頃に
作られた歌らしい、著書の注釈によれば、“弘農郡”は「河南省霊県と陜県であって、陜州と重なっ
ていた」とあります。
この歌の“宝を弘農の野に得た”この“得宝歌”の歌詞が、シュリーマンの「ホメロス」の歌では
ありませんが、少し気になります。「寶」の官窯発見の手掛かりとして、この辺りも十分調査対象に
入れても不思議ではありません。
この宝歌を、望春桜に向かう船上の玄宗に奏楽すると玄宗は歓悦し、詔勅を下し関係者に恩賞を下
したと言います。
著書220頁に、この頃、相次いで霊符が発見される事が起こり、郡臣が玄宗皇帝に「開元天地大寶
聖文神武応道皇帝」の尊号を奉ったとされます。
重ねて解説いたしますが、「開元」の意味は既に説明しました。「天地大宝(寶)」即ち「天地」
とは「寶」の“天円地方”呼称の略であり、“天地の大宝”であるから、現代で言うなら「世界一の宝」
です。
最も重要な事は「聖文」です。正にこの“聖文”とは、絶対「極」の“天地の大寶”、唯一驚異
の印文『寶』の事です。
後は最早、説明の必要はありません。
それでは読者の皆さんは、天印「寶」絶対の「一」“太極”の印文があるのに、何故この頃、
更に霊符が発見されたりするのか、不思議に思われるでしょう。このことに付して平成承禎が
約1300年前を透視して明快に断言しよう。
それはとりもなおさず玄宗が「寶」の“印文”を天地で唯一人、心ゆくまで楽しんだ結果です。
第6章1の泰山封禅の儀に、この「寶」の印文を天に報告した時、玄宗が嬉しさのあまり万民の
福を願う為公開すべきと言いました。今や道教の“主”として君臨する“道主皇帝”である彼は、
絶対に創造不可能なこの奇跡の印文で、臣下や二流の学者と問答し力量を試しながら楽しんでい
たのです。
もちろん自ら意図し、又楽しんでいたのであるから、間違っても咎めだてする筈はありません。
“機知に富む玄宗であり”角度を変え、多くのヒントを与え、その解答を楽しみながら一人
“悦”に入ていたのであります。
それが第3章1に載る図1の、日月・三清・雷神・勅令・太上老君の全てを羅列したものが、
玄宗のヒントの出題により、形式を変え、色々な霊符として今に伝わるのです。
なお、『旧唐書』(文献13-巻26-980頁)に「睿宗聖文考武皇帝神主」とあります。これは第6章
9項「則天武后」のところで語った通り承禎が武后にだけは天印の秘文(聖文)を教えなかった歴史
の裏打ちです。武后の尊号に「聖文」の加上は見当たりません。睿宗が承禎の数術に嘆息し玄宗にそ
の偉大なる人柄を紹介してあったことによる結果です。臣下および万民の万歳三唱の轟が1300年の時
空を超えて来ます“。
玄宗のお気に入りの尊号を以下に記します。
<玄宗尊号>
開元・元年 開元神武皇帝
開元27年 開元「聖文」神武皇帝
天寶・元年 開元天寶「聖文」神武皇帝
同 7年 開元天寶「聖文」神武応道皇帝
同 8載 開元天地大寶「聖文」神武応道皇帝
同12載 開元天地大寶「聖文」神武考徳証道皇帝
注・開元が約30年・聖文の文字を最初に戴くのが開元27年で天寶まで、残り約3年。
恐らく「寶」の焼成はこの年で、印文の篆刻は、この年からスタートしたのでしょう(『放
蕩都市』645頁より)。
尚この項は「寶」解明と本書進行上、本書の前半に登場しなくてはならない重要な資料です。
まさに偉大な大宗師・司馬承禎は、1300年の時空を超えて、最後の最後まで、私の「寶」解明の意志を試
すため、渦に舞う木の葉の如く私を翻弄した、その軌跡です。