天 第8章4・「太極宇宙」と「寶」“ビックバン”

 

<その1>

始めに春秋戦国時代に老子を筆頭とする、荘子・筍子・墨子・韓非子・孫子・孔子・その他・キラ

星の如く輩出した思想群・いわゆる諸子百家の思想は20世紀の現代に至るもそれぞれの思想は一切の

輝きを失ってはおりません。むしろこの混迷する現代において、尚一層輝きが増しているように思わ

れます。

この太極「寶」は、その偉大な鉄人達の全ての哲理を登破し、さらに次元を遥かに超え創造された漢文化

の神知、漢大宇宙・太極の「寶」です。

承禎により創造された漢大宇宙・太極の神秘は、現代宇宙理論のビック・バン宇宙と、とてつもなく暗

合するのです。

さて中国を問わず古代文明の民族は農事に深く関わる天候・季節をより確実に観るためだけでなく、

自然や天に対する畏敬から祭祀の重要性を認め、早くから天文を観測し暦を使用しています。

中国天文学の発祥は既に前14世紀の殷代にあり、甲骨文に暦日が刻まれ太陰太陽暦の原形が見られま

す。

唐代新しい西方からの占星や天文暦法が伝わり、新型の天文儀器が作られ特に玄宗皇帝の開元時、

インドの天文学者が観測などに参与するほどで、開元15年、易数をもって付会した大衍暦が玄宗の勅令

により完成し、天体観測は著しく進歩したという。

これは当時、承禎が玄宗皇帝にご進講した太極宇宙を、玄宗が世界の科学者を集め科学的究明に乗り出

した事を示すものです。

芸術的感性も天才と謳われたた玄宗です。政治・経済・外交と的確かつ目覚ましい開元の治世を次々

に断行した英明な皇帝です。

まさに承禎の太極宇宙を感得し、その神秘を科学的に究明せんと乗り出した証左です。それでは道

主皇帝玄宗が感得し承禎が説く、漢大宇宙太極はどの様な宇宙か、現代宇宙理論の最先端を見て、そ

の神秘の中に、承禎の宇宙を見る事といたします。

今日、最も注目される宇宙理論に、ビックバン宇宙が注目を浴びている。このビックバンは・

イギリスのホーキング博士が提唱する理論で、宇宙の始まりが、超高密度な質量無限大の小さな火

の固まりであったという説です。このホーキング博士が提唱するビックバン宇宙とは、あの20世紀最大の

物理学者・アルバート・アインシュタインの一般相対論が暗示した宇宙理論をさらに展開し宇宙の究

極の始まりが質量無限大の火の球であったという説です。

まさに太極「寶」は第1章20項で解説したとおり現代および未来の超スーパーコンピュータでもそ

の解を求める事は不可能な質量無限大の九文字、絶句です。そして「寶」は超微粒子マグマの臨界か

ら生まれた奇跡の焼き物です。

まさに、ビックバンと、この太極「寶」は暗合するのです。

『アインシュタインを超える』(文献83)によると、さらに現代の物理学者は、あのアインシ

ュタインですら、果たし得なかった、重力理論と量子力学、二つの対極を統一する理論に挑んでいる

という。即ち果てしない銀河宇宙と、超ミクロの極限宇宙との大統一理論に挑戦しているという。





私は、この漢大宇宙を封じ込めた究極の絶句、太極の九文字に、現代物理学が直面しているこの大

命題を、この偉大な司馬承禎が既にこの太極「寶」で具現していると思わずにはおれないのです。

それではさらに現代科学の最前線と承禎のビックバン「寶」と、“玄”で暗合するそのブラック・

ホールに、全ての“気”を光のエネルギーに変え、ハッブル望遠鏡の照準を「寶」合わせ、その承禎

の宇宙を観ることと致します。

歴史の彼方に閉ざされ、伏儀の再来と謳われたであろう偉大な承禎の大宇宙が漢文化の神知太極で

あるなら、太極とビック・バン宇宙はどこまでも“暗合”すると考えるのです。

<その2>

さて今日、現代科学で論じられる「宇宙」の定義に通じるものが、中国漢代の書『淮南子』に見えま

す。“上下四方(空間)これを「宇」と謂い「往古来今」(過去・現在・未来)これを「宙」と謂う”

と記されたその一文は、現代科学が定義する時空の観念をハツキリと認識していたことの表れです。

この深淵な中国哲学の根幹をなす老子思想の、「道」における「無」「有」の世界が、現代宇宙論の最

前線、とりわけ量子物理学の世界で科学者の脳裏に、消しがたい幻影となって現れるそうです。

この事に関し、『老子は生きている』(文献97)の第9章「道」の幻影と「無」の科学で、中国科学院

自然科学史研究員の董光壁氏が物理学者の視点から、この事を深い洞察をもって論理的に述べておられ

ます。著書の中で薫氏は、現代物理学の究極が、増々老子「道」「無」の科学に、どこまでも暗合して

くる事を示しておられます。

それは取りも直さずビックバン宇宙の具現化、「寶」との科学的“暗合”です。

1節・「道」の奥義、第2節・「零」の創造、第3節・「真空」は空ならず,第4節・「宇宙の

開闢」,第5節・物理学の「質朴性原理」の各節で,老子の「道」と現代科学の深い暗合を思惟して

おられます。著書を拝読し,私の空想で旅する自らの考えと同感の世界であり,是非御一読を願うもの

です。

冒頭、老子の説く道が,数学の「0」、物理学の真空、宇宙の開闢、科学の質朴性原理説くところの「無」

哲理の深淵が、現代科学の究極の場に深く暗合することを述べておられます。

1節・老子哲学の最高概念の「道」は,宇宙の本源と秩序法則の二重の意味を内包するという。

2節・「0」と「無」,1・2・3・‥の自然数「有」,この関係を易の太極で説明し,老子

の「無」は「0」の潜在的無限の生命力を秘めるという。

3節・アインシュタインが真空は虚空にあらず、引力場の一種の特別な状態であるという考えを

提唱し、その後、量子物理学が発達します。そして原子核を支配する、“場の理論”中間子理論でノー

ベル賞に輝いた湯川秀樹博士は、その理論の精神的基底に老子の思想があり、それが博士の発見に結

び付いたことを紹介し、初期の原子論「虚空」の概念から老子の無限の生命力を内抱する「無」を述

べる。(『心ゆたかに』湯川秀樹 筑摩書房)

4節・アインシュタインの相対論から進んだ宇宙論は、ペンローズ・ホーキングの特異点定理に達

し」「宇宙は無から生まれた」と言う現代科学が老子の思想の極致に重層、暗合する事を述べる。

5節・アメリカ現代物理学者J・ホイラーは、「物理学は全くの無一物から全ての存在に達する」

という質朴性原理は、「道」の概念と暗合するという。

以上省略し簡単に述べたが、老子の道の深淵・無の極致と、現代量子物理学の最前線との暗合を、薫

氏は科学的立場から説き、.現代科学の究極の“場”で、老子の思想が今一番注目を集めていると述べて

られます。

その現代科学が挑む最前線の宇宙理論に、いわゆるホーキング博士の宇宙開闢論、ビック・バン説が

あります。この現代の天才が提唱する「ビック・バン説」、その特異点モデルを形而上学にも形而下

学からも遡ること1300年前、既に大宇宙を印と言う究極の“道具”に凝縮し、“方円の器”“太

極”“寶”を創造した哲人がいます。

それが、まさしく司馬承禎なのです。


<その3>

現代科学は、これまで宇宙のはじまりについては形而学上や宗教上に属する神聖かつ永遠の空域と

して、科学者自身も、そこに立ち入ることを尻込みしてきました。

しかしながら、エドウィン・ハッブル以来、観測技術の飛躍的進歩により、宇宙の膨脹が確実視さ

れ、その膨脹する宇宙の原点、宇宙開闢の元が注目を浴び、今や研究対象は超ミクロの世界が宇宙創

世の“核”として論議されてます。その“核”は、この項<その2>で述べた、老子の“無”

宇宙とほとんど暗合する、“無”から生まれたという。

この核であるビックバンは、質量が超高密な火の玉状態であったと言われます。「寶」は、焼き物

に関しての項で述べた、陶土は盲目の職人の神技的感触より、超微粒子を練り固め、有史以来今日ま

で自然火力で焼かれた全ての焼き物よりも超高密度な“磁器”である事を述べました。即ち天印は宇

宙始まり時の超高密度状態、ビックバン・モデルです。又「道教思想と印の一考察」で、我々が普通

に見える篆刻の象形は虚であり、印内部の印文は、絶対見る事の出来ない無世界であることを述べ

ました。無と虚、渾然一体の混沌太極宇宙です。

「太極」の「太」は無限の「大」の意味、「極」は究極の極小です。

即ち、無限の漢大宇宙を究極の絶句、極限に圧縮してありますから当然、「磁器」の“質量”も、超高

密度、質量は無限大の状態です。

そして、特異点のインフレーション現象により、今日我々の宇宙、『実』叉は『有』宇宙が生まれ

ました。まさに1300年の時空を経て印泥の交合、特異点の発生により押印された瞬間より、『実』『有』

の世界が出現したのです。

その快挙は古美術の鬼才、吉田翁の手により実印(押印)されたのです。

そして、今日の宇宙理論は、我々一般人の想像を越えた「ブラック・ホール」「ホワイト・ホール」、

はたまた後漢書の方術伝「壷中天」の逸話のような、「ワームホール」多元的宇宙論にまで、その論

理は確実に進化しているのです。

本書で既に述べた「寶」は“多重層宇宙”です。



承禎の宇宙の底知れぬ深遠は知るよしも無いが、少なくともこの項<その2>で述べた老子の説く

「無」宇宙、そして表裏一体の「虚」・「有」の宇宙観を念頭におき、「寶」の焼成を進言したこと

は間違いないであろう。

『壷の中の宇宙』(文献142)に述べられてある宇宙論に、「寶」に秘めた承禎の科学的メッセージ

を、さらに幾つか重ね合わせて観てみる事と致します。この著書の中で、教授はホーキング理論の計

算上発生する虚時間(r)を、ある意味で数学的トリックとも言え、この虚数の扱いにつにて計算され

た‘‘結果論”で、虚時間の理解を観念的に片付けてあったと思うが、「寶」「印面」の篆刻象形は、既に

文字本来の象形の意味も言葉の意味も無い“虚”であると本書は述べました。

そして、この印は本来創造された瞬間から、永遠に押印されることのない、“蔵而不用”の神

器で有ることを確認致しました。これにより「寶」自体、全く運動エネルギーの持たない“0”

の状態で、一つの完全な静止(無)宇宙です。

特異点に発生するエネルギーと同様、とてつもない力が働かなければ、決して内部に天隠され

た無の実相その投影「有」の実態を現さない、高密度の質量を有する“無”の状態です。

ホーキングやホイラーを始めとする、現代科学者が行き着く究極の“場”は、「0」「虚」「真

空」「空」などの概念を内抱する、“無”の科学的理解であり、“無の質”に対する問いかけであろう

と思います。

“無は無にあらず虚無の無にあらず”、約17年前、この言葉を戴き“無”の捕まえ方に深い教えを

戴いた方に荻野氏がおられます。その荻野氏は至高の精神を胸に秘め、現在もご壮健であられま

す。この道教の根源的“道”である“無”と“虚”、そして“有”に対し、当然承禎は玄宗

に具体的に答え、太極ビックバン宇宙「寶」創造を進言した筈です。

即ち、この現代科学者が扱いかねている“虚”時間とか虚数に関し、本書で述べた様に、承禎は‘‘印”

と言う“道具の宿命”、印面、表裏一体の世界で具体的に答えているのです。

印内部に確かに存在する九文字の“無”は、我々が絶対この目で見ることのできぬ空間、観念の中

でしか観ることの出来ぬ、無の世界です。しかも究極の密度に焼き上げたビックバン・モデル「寶」

は、永遠に藏而不用の「神器」です。

運動量「0」の高密度静止宇宙、その内部に天隠された、漢大宇宙を極限に圧縮した質量無限大のビ

ックバン「九文字」“無’’は厳然とその無の印内宇宙に内在するのです。

印面の象形は、篆刻師からは間違いなく文字を彫っているのですが彫り上がったものは文字として

の象形も言葉の価値も全く有さない、ただの凹凸の世界で、文字としての根源的価値からすると、全

く無意味・無価値な“虚”の世界そのものです。

この凹凸背中合わせの、無と虚の互いの異次元の宇宙は、理論的にはお互いの宇宙からはマイナス何

十乗の果てしない距離、量子学的限界点まで境界は確かに異なるが、最終的には凹凸・無と虚は表裏一

の境を失う、超ミクロの“ゆらぎ”混沌・原子宇宙、で同時化するのです。

まさに‘‘混沌太極宇宙”です。

即ち承禎は、印と言う道具の宿命と漢字の篆象(天象)の中に、現代科学が扱いかねている“虚”

の問題に関し既に「文字の根源」と「印の宿命」でその解答を暗示したと考えるのです。

無は無にあらず、虚も又虚に非ずです。当然「虚」の印面を見る我々“有”(実)宇宙も叉、虚と表裏

を一にする“混沌宇宙”です。

我々人間が時として、この世に“虚しざ’を“感ずる”のは、有と虚の世界が元々表裏一体となっ

ているからでしょう。

仏教の説く色即是空の「空」の世界に相似する、虚の象形を押印し写した「虚有」一体の現実世界

「有」、その「有」の中に“フト”ものの哀れ「虚」を観た時、有(実)の虚しさを感ずるのであろ

う。

この「虚」を表裏とした「無」から「有」の循環は陰陽五行相生相剋により展開される、これが仏教

で言う輪廻転生をさすのであろうか。

いずれにしても、その虚は無尽蔵の漢大宇宙をパックした九文字、“無”と表裏一体の混沌状態、

質量無限大のビックバン宇宙なのです。

薫氏が第2節「零」の創造で述べる「無」は,無限の生命力を秘める無であり,「真空」や「空」「零」

ではない,無限の質と可能性を内臓した「無」であることを述べておられますが、まさに「虚」だけの

「無」では無いのであり、悲観するには当たらないのです。

承禎は印と言う道具で、「有」「虚」「無」への道が、只々限りなく薄い表裏の“ゆらぎ’’状態で、

すぐ目の前に存在する事を説き、玄宗にこの道理を全身全霊で知覚・体感する事こそ、「ゆらぎ」の

道を通り抜け昇仙する大道であると説明したと考えるのです。

この極意こそ道教の最高秘術、隠形術、天隠雲隠れの奥義と言うものでしょうか。まさに、こ

の「道」の奥義、道を具現化した神噐「寶」を祀る事は、昇仙界のパスポートと説明したことでし

ょう。

それはさておき、“無”“虚”“有”の三界は、究極の場では限りない超ミクロの原子宇宙“ゆ

らぎ”の状態で、渾然一体となる混沌宇宙、天地開闢の量子宇宙です。それを通り抜ける道が、「マ

ザー・ユニバース」「チャイルド・ユニバース」などの最新宇宙論、多重宇宙への道であり、

老子の説く所の“大道”というものなのでしょうか。

以上この項<その2>薫氏の述べる老子思想と現代科学の暗合は、とりも直さず承禎の宇宙世界です。



くその4>

旧約聖書・創世記・第1章冒頭に,「神は光あれ」とあります.叉ヨハネによる福音書、第1章に

「初めに、ことばがあった」とあります.“光”と“言葉”,まさに「印面」光の天書そのもので

す。

『キリスト教史』(文献127−241亘)によれば西暦635年以前、唐の太宗時代よりキリスト教は伝

えられ、玄宗は積極的に保護したとあります。当時シルクロードの西国イランの国教はゾロアス

ター教またサマルカンド周域はマニ教であった。それらは全ては中華・盛唐に受容され、手厚く

保護されたという。

このあらゆる文化を受け入れる玄宗の揺るぎない心底、基は、天印「寶」です。承禎がこれら

の西方の神が説きたもうた摂理を踏破したことは明らかあり、今日の西洋科学が中国思想、老子

の宇宙に接近すると同様、逆に西方の神の摂理までも一切、「寶」創造の段階で登破

していたのです。

以上この偉大なる司馬承禎は、遥か1300年前、今日の最先端宇宙理論ビックバン宇宙を天印「寶」

で観ていたのです。

これ以上は遥かな大宇宙です。

この道教最高方術“天隠”の奥義を秘めたビックバン宇宙「天印」、この偉大な「寶」を創造した司

馬承禎は、未だ歴史の“無為”として沈黙の彼方です。承禎と玄宗二人の人物が中国史に果たした歴

史的役割の再検討を、願わずにはおれないのです。

著書『宇宙には意思がある』(文献150)を著された元NASA主任研究員・神奈川大学・桜井邦朋教授は、

著書の中で数学(数式)に頼る物理学者は二流の学者であると述べられてます。ギリシャの哲学者

リストテレスと同様“経験こそが科学を発展させる”と述べておられます。著書の内容は“興

奮の一言”であり、現代教育の在り方にも、疑問を呈せられておられます。教授のこの著書は、“体

験”に裏打ちされた計り知れない名著であります。

今日、知識及び学歴崇拝の現代社会が、あらゆる分野に、何重もの障壁を築き“伸びやかざ’を失

う、弾力のない社会を造り上げ、昨今あらゆる弊害が噴出しております。私にとって「寶」との遭遇

は、今日までの経験(体験)の賜物であり著書の題名の通り“宇宙の意思”が働いたと思わずにはお

れません。

桜井教授の著書は『杜甫の旅』(文献51)の田川先生の著書と共に、本書「寶」をご理解を戴く観点

からも、是非「体験」として、ご一読戴きたいものです。

近年、社会全体の視力が低下し“真の人”を“真”に正しく観ることがなされず、誠の人が沈黙な

されている気がいたします。社会の中高層を築く高学歴層・長く革新を掲げる真の保守層・巨大メデ

ア・優秀な女性群等の奮闘により、社会が混迷の度を深め若者の未来がより一層不透明と深刻の度を

増している時代です。敗者復活の道が閉ざされた弾力の無い高度管理社会です。「寶」発見が、せめ

て時代に風穴を開け、我ら無知なる同胞と次代の若者達に夢と希望が与えられるなら、これに勝る喜

びはありません。その様な意味で“経験”(体験)を重視される桜井先生の著書は圧巻です。歴史も又、

文献と知識、一方向からだけに囚われ、絶対の信念で歴史を造り上げては“虚”の歴史が語られ

ることとなります。洋のソクラタスも真の“無知の自覚”を説く。無は道であり無限の希望を示す。

私のこの様なたわごとは、老子の「無為」を戴く司馬承禎に一蹴されそうです。迷走したこの項です

が、いずれにしても天印「寶」は、唐代は勿論、唐代以前の中国思想を観る巨大なレンズ・ハッブル望

鏡であり又、歴史のターニング・ポイント、分水嶺に輝く金字塔です。

又ビックバンの巨大な“光”であり太極です。以後の中国史を、この偉大な「寶」の“光”を

観ずして語れば、その歴史は色褪せた“虚”の史観となります。天印は人類が史上初めて創造したビ

ックバン・モデル「寶」です。