第7章「火」・龍と獅子
獅子が王朝のシンボルとしてデビューする唐代以前、「龍」は伝説上最も強い架空(当時は実在す
る神獣として疑う者は皆無であったろう)の神獣でした。
しかしシルクロードの恒常的ルート確保により、太古より獅子の生息しない中国人にとって漢の
「武帝」以来その伝見ですら、おぼろげであった獅子の勇姿を目の当たりにしてその登場は衝撃的で
あったろう。
『狛犬』(文献15-25貢)に、もともと皇帝の陵は石獣一対、天祿・麒麟などが王座を占め、一段下
の王候の墓に獅子が鎮座したという。
ところが唐代の高宗・則天を合葬した「乾陵」には、獅子がそれ等にとって変わり天子を守護する
と言う。ここへ来て獅子は皇帝鎮護の王座に付く。この頃、颯爽と登場した天子・玄宗には、獅子は
新時代の到来を告げる「開元」の格好のシンボルとして、鮮明に映ったものと思われます。
「開元」は“元を開ぐ”であり、道教の開祖.「黄帝Jの神獣「白澤」は、漢文化の太古より伝わる獅
子です。
まさに唐室にとって、今だ覚めやらぬ「武后時代」と、打ち続いた“女禍”の時代と訣別すべく、
新時代の到来を宣言する、政治的な格好のシンボルであったのです。
私は、この開元〜天賓元年を唐代・開元のルネッサンス(再生の意)と位置付けています。
この「寶」の獅子は、太古黄帝伝説に由来する獅子王「白澤」の伝説を正確に再現し、新時代を告げ
る斬新な獅子の造形に、元を開き再生の強い願いを込めたと考えるのです。
ここで太古以来、長く王座に君臨していた、「龍」の歴史を少し遡って観る事とします。
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人間は命を宿した瞬間から、それぞれが物心つくまで、外界より獲得した全てを、遺伝子の延長線
上の空間とも言える無意識の中に蓄積し、道教でいう「玄」の深淵で自らの深層世界を形成します。
同様に人類全体も叉、果てしない生物進化の過程で生物学的深層世界を宿しています。
太古に火や石器を手にするその又遥か以前、人類が巨大な爬虫類に対抗する術のなかった迫害の記
憶を、人類という種の無意識世界“DNA”に記録しているのです。
この、無意識世界に宿る“微”なる記憶から、「蛇」と言う生き物を見た時、恐れともいえる
複雑な深層世界が呼び覚まされるのでしょう。「龍」の起源は「蛇」と想像されるが、古来より洋の
東西を問わず、蛇信仰は同時発生的にありました。
この蛇の生態は、地中に潜り水陸両用の鱗を装備し、敵に体を分断されても各々の肢体が、さなが
ら魂を宿しているかの如く、激しい生命力を発揮します。そして人間という“種”からの思考を遥
かに越えた、アクロバット状態に全身を渦巻かせます。また自らを仮死状態化して冬眠し、ついには
脱皮します。
そして驚くべきことに、鎌首を立て一瞬空中を飛んだかと思える俊敏な動きを見せ、種族の中には信
じられない猛毒を宿す仲間もいます。
また動物の中で、水と食べ物がなくても生存できる期間は最長であるという驚異的生命力を持つと聞
いています。
そこで「医食同源」の中国人は、早くからその驚異的霊力にあやからんと、精力増強などに食して来
たのです。
この万能の蛇に、疾風の如く山野を駆け、断崖絶壁を登り、石の如く硬い堂々たる角を生やし、発
情期にこの角を互いに強烈に激突させる鹿科の角を装着させ、何時の頃からか天空を駆ける「龍」が
生まれます。
さらに雷雨を伴った竜巻、′風の道が蛇行し.ながら草原を一気に駆け抜けるなど、龍の出現を想像させる
自然現象、又南方の大蛇の見参、揚子江ワニの巨大化のイメージ、恐竜、サメ・クジラの仲間の化石及
び骨などの発見が、それらの想像をさらに大きく増幅させ、それらが渾然一体となって実在感が確実
化したものでしょう。
『爾雅翼』に「龍に九似あり」角は鹿、うなじは蛇、その他、伝々とあります。『龍とドラゴン』(文
献10−10貢)
図@の甲骨文字における龍の字形は、蛇の姿態に角を生やした単純なもので、春秋戦国期に龍の字形に
近く龍の甲骨文字を入れるようになったとあります。
自ら創造した架空の蛇の王者は、悠久の国と表現するに相応しい国土と歴史、何十キロ単位、数百
年単位で話が伝わる、しかもメディアの無い時代の伝播です。その距離と時間は、さらに悠久性を帯
び、伝わる話は肥大化・真実化し、今日に伝わる龍の勇姿として実体化したのでしょう。
民衆は、この万能の霊力を授からんとして、龍信仰を生み、皇帝はその絶対的尊厳を自らの地位に
重ね、蛇の昇化転生・「龍」は、ついに中華の象徴として王者の地位に就くのです。
この王者の象徴「龍」は、唐代・玄宗皇帝の時、シルクロードより連れて来られた獅子により、漢の
武帝以来の王座を明け渡します。
唐の皇宗、道教の二聖の一人、黄帝伝説に拘る白獅子「白澤」に、外来の獅子が完全に合体し、開元
のルネッサンス、そのシンボルとして龍に代わり獅子は神獣の王者の地位に就くのです。
この獅子が王座に就いたことは、次の項で述べる「正倉院」宝物で明確に観えるのです。
その後玄宗皇帝が「安史の乱」で威信失墜したことにより、龍は再び、その王者の位置を回復します。『中
国文明論集』(文献110−341貢)によると、「北宋」末「哲宗皇帝」の時代「龍」が正式の王者の印しと
して、法制化され諸々龍に関して規定されたと言われます。
政令は皇帝の角は二角、ツメは五爪、そして地から天に向かう龍を昇り龍とし、これを皇帝だけが
紋する龍と定めます。
臣下はこれを犯してはならず、これ以外の龍を認める事としました。
しかし第一等の座を明け渡したとは言え、自由闊達な太平の世を開いた玄宗皇帝と同様、百獣の王
としての獅子は、以後も中国人に圧倒的支持を得て今日に至るのです。
おそらく龍に劣らぬ獅子の文物、モニュメントの多さからでしょう、つい先頃までの中国を称して、
「眠れる獅子」という中国人にとって有り難くない呼称も生まれたのです。
中国に行った事のない私は、あらゆる資料を得んと先頃借りてきた香港ビデオ映画に獅子舞いを題
材にした『天地争覇』シリーズ2作を見ました。
一つは清朝末、紫禁城を舞台に、獅子舞いと少林寺拳法を売り物二した、娯楽映画で史実性は全くあ
りません。それでも本格的時代物で、こと獅子舞いに関する伝統や振り付け等の文化的考証は、相当深
く研究されており、私の視点からは実に見るべきものがありました。
ストーリは、何十組もの獅子舞いの組が、幟のテッペンに掲げられた「寶」の御札を奪い合い、そ
の勝者に「獅子王」の名誉称号を与えるという単純な内容ですが、獅子を誇りにする伝統と庶民の熱
気が、私には強い印象を与えました。物語は皇帝側の龍と民衆側の獅子が共に力を合わせ悪と戦う内
容で、参加する各組の獅子頭は家宝として子から孫へ伝えられる内容です。
どちらも、獅子が主人公で、現代香港の人々がいかに獅子舞いを愛しているかを、監督が観て制作し
たものと思ます。
正に獅子と龍は今日でも同格王座であり、唐代玄宗に始まる獅子信仰は今日も庶民に愛され生き続け
ているのであります。
再び龍に話を戻すと、『龍とドラゴン』(文献10−8頁)によれば、雨量の少ない河北省の農村地帯に
は「龍王廟」が祭られ、雨乞いの祭礼が行なわれるとあります。
「寶」の印文「界」の九畳篆「龍」は、宋代に規定した「昇り龍」を刻してあるが、「田」は『大漢
和』に「蒼龍の宿」とあり、この龍の宿、田に向かい恵みの雨をもたらす「下り龍」も同時に象し
てあります。「田」・五画数には、聖帝「神農」と五穀を耕す「民」を同格に戴いております。
「民」の象徴「田」を天に戴くは、「有徳の皇帝」になるべき玄宗に、皇帝として又天子としての
心得を承禎が諭したからでしょう。どちらの田が民で神農がどちらかは、最早説明の必要はないでし
ょう。
又『龍の起源』(文献92)によれば、かつて龍の色は、青赤白黒黄の五つの色から成るとあります。
そして中国怪談異見集、『述異記』には、龍も数百年経つと黄色になるとあります。
もしかして「寶」は当初、印面がもっと白に近い黄の色をしていたとも十分考えられます? 色
絵の焼き物の絵付けの部分は100年程経つと微妙に色が変化します。そして光線の具合で色付の部
分に虹が観測されます。ですから印面の黄色は今後さらに少しづつ濃度を増すことも、あながち無い
とは言えません。
以上、今日我々が生活する中で、何とは無しに見逃す些細な事、伝統や言い伝え、風習などの中に
も、その時代時代の人々が熱望した原因又、歴史的重大な背景が潜むものです。特に長い歴史の問に
広範囲に伝播・伝承された事柄には、思わぬ重大事が秘められている事もあります。
学術研究の最前線から遠く離れ、研究対象になり難い我々の日常生活の中に、決して軽視しては
ならない事柄のあることを、この獅子が教えてくれるのです。
その意味でも、伝統的な風俗風習に視点をあて、そこに潜む問題を掘り起こし数々の著書を書かれてお
られます吉野裕子博士の諸本に本書作成の過程で多大なヒントを戴きました。
大阪市立東洋陶磁美術館収蔵「青花壷」写真3(元の時代)に、壷の胴まわりに「龍」と「牡丹」、持
手に「獅子」が描かれてあります。
『日本の紋様花鳥2』(文献102)に「牡丹」が唐代、花の王位に就き「富貴の花」として後世「梅
の花」が代わって王位に就くまで百花の王であったとあります。
この「青花壷」に措かれ百花の王に飾られた「龍」と「獅子」は、正に中華を代表する王者の印しで
す。
唐代、玄宗が押し進めた開元のルネッサンス、獅子化政策は、後世の獅子信仰に絶大な影響を与えたので