6章「老」・巨星・司馬承禎を仰ぐ

 

承禎は647〜735年、河内郡温県の人、21歳で道士となります。

字は子微・白雲子と号し、潘師正に師事し「辟穀導引」の術を学び、「上清の法」を伝授される。あ

まねく名山に遊び、天台山に盧を築き世に出るをよしとしませんでした。しかし道士としての

名声はすでに天下に轟き、則天武后、睿宗の召喚を拝命し参内する。しかし、いずれも直ぐに辞去

し帰山する。

野望に燃える武后に「天下の理」は説く必要などありません。いずれ対峙しなければならな

い則天武后ではありますが、今は則天文字に関する漢宇宙、漢数術の進講が中心であった事

にとどめておきます。

いずれにしても、すでに道教を代表する承禎であります。それだけで済む会見ではなかったであ

りましょう。仏教推進派の真っただ中です。

年表690〜705の間とすると承禎は40才後半50前であり、武后より19才年下です。

政治的に仏教を重んじている武后です。問答の進展、対応によっては、焚書抗儒に見られる様な、深

刻な結果も想定しなければなりません。

ましてや、女の独裁者です。性に潜む琴線は深く警戒せねばなりせん。

双方、初対面であっても、お互いの人物の予備知識は十分であります。いずれにしても、この中

国史に名を馳せる希代の女帝、女の業の権化、妖怪とも思えるこの武后と、後世歴史の中に自

らの偉業を秘した承禎との息詰まる会見と問答は、圧巻であったろう。

恐らく武后も、年下である筈の、この承禎の計りしれぬ知の深遠に、舌を巻いたと想像されます。

しかし、その知の深さすらも出し過ぎて
は、武后の政治戦略と一代で、のし上った自信と、史上初

めての“女”の帝としての自尊心、その琴線に触れる恐れがある。

おそらく承禎の脳裏には、すでに武后の後、次の時代、時節の到来を観ていたであろう。自然と共に、

時代をやり過ごす洞察力が求められます。希代の妖怪、武后すらも“気”づかぬ道教の、あらゆる秘術、

方術を駆使し、背水の陣にも、変幻自在そして無為自然の体、自説の「天の理」と法を述べ、静かに退

席したであろう。

人は知らず、道家の存亡を胸に秘めた、承禎一世一代の試練であった。この会見の記述が後世伝わら

ないのは、承禎と武后、立場と人生観こそ違え、共に遥か彼方の玄宇宙を観た者だけが、暗黙の中で察す

世界なのです。武后が、この承禎の人物の中に、修羅場に生きた自らの人生の陰陽を観、何を感じ

たかは、知る由もありません。

一切を虚しくし、無の中に自らの「道」を観いだし会見に望んだ承禎の深淵も、又我ら凡夫には

知る由もありません。恐らくこの歴史的会見が当時、無言の会見として、宮廷から、漏れ伝わっ

た事は、道家は勿論、唐朝派の人達を勇気づけ、承禎の人なりを深く印象づけたことであろう。

そして、この唐代一、いや今や、中国史上屈指の巨人として踊り出た、この偉大な宗師に、自ら

の「道」を聞かんと、再三にわたり使いを出したのですが、応じなかったと伝わる、睿宗が召喚

の使者として承禎の兄に命じ迎えに行かせているのです。そして睿宗が國を治める道を問うと、

「國も身も同じで心を淡に遊ばしめ気を漠に合わせ物事を自然にして私を無にすれば天下は治ま

る」と答える。睿宗は、いにしえの言葉さながらであると嘆息し、寶琴その他を贈り送別の宴

を開き、帰山を許している。

中巖道士と言う異名を持つ承禎の導引(気功)の法と「辟穀」の神仙術を体得し、若き頃、文字

どうり、五穀を廃し、信じられない程の小量の食べ物で、山中深く、岩山のホコラを転々とし生

活していたのです。

則天武后、睿宗二人の官職の要請も辞したのは、自然の理である。

無為自然の中に身を委ね、俗世を嫌う偉大な道士承禎です。後、承禎の弟子たちの働きかけ、又

武后との接見の話しを聞いたり、睿宗からの推挙もあったのであろう、急速にしかもきわめて深

く玄宗は、承禎と親交を結び道教の信仰を強めて行く。

この玄宗が深く入信してゆくその原因こそ、史上に現れぬ天印「寶」の真理であったのです。

開元6年「璽」を「寶」に復します。開元9年、ついに東都洛陽に赴いて承禎より道主皇帝の証を

授かります。

もはや、表向きは皇帝であっても、深い絆と「寶」の真理で結ばれた師弟の間柄の玄宗は、帰山

を望む承禎を何としても引き止め、自らと唐朝の支えとなって欲しかったのであろう”「詔」

によって、承禎を王屋山に壇室を築かせ、おらしめたという。

“詔”とは天子の命令、即ち勅令である。この玄宗“直々”の「詔」をもって承禎を引き止めたこと

は唐代「開元史」に“特筆”すべき事であろう。なにも次に述べる、『老子道徳経』作成の為

だけでは無い。

驚異の印文を発明した承禎への絶大な尊敬と、余りに過酷な修行を課す承禎の健康面を心配した

子玄宗の勅令である。

天子の勅令をもって“おらしめ“なければならぬ程、承禎は老子の生き方“無の大道” を歩んでいた

のである。

勅令の甲斐あって開元十九年(731)『老子道徳経』を校勘し、5,380言の真本を作成し、三体の書(蒙

書・隷書・金剪刀書)で書写し玄宗に奏上する。

金剪刀書は承禎が発案した書体であります。

卒年は八十九才で、玄宗は「銀青光禄大夫」の位と「貞一先生」の尊号を贈る。道家の語で「貞一」とは、

奥義の極まり無いことをさす。

下記、詩は承禎に対し睿宗が送別の宴を開き、百官の歓送の詩歌とその答礼詩です。

「笙歌」によると「琴を弾じて」とあり、承禎は音曲に堪能であったとの事です。能書家であり、辟穀

導引の術の極意を得、天文学的確率の印文「寶」に観る数術の天才、その他百般に通じる神秘の道士

す。諸芸百般に通じ音曲の天才と言われた英明な玄宗とは、この後、深い深い師弟の絆で結ばれてゆ

く。天の子であり中華帝国を背負う玄宗と、漢大宇宙を観る承禎と「玄」の世界を解する者士が分かち

あえる世界です。玄宗も又、歴史に隠れた道教でいう真人です。何はともあれ睿宗主催の送別の宴を観る。

@Aは睿宗との送別の宴(景雲元年710年)に詠まれたものです。

1は冬の宵の歌で、宴席の満座は朝廷の百官達です。

久しく唐室の火は絶えて、王道の「道」は廃れている。

宴もたけなわである。宋之門は宮廷の官僚歌人である。

1の終り二行“此の情、俗人に向かって説かず。愛して見えず、恨み窮まり無し”と詠む。この

歌に偉大な承禎の歩む道、その深い胸のうち秘めたる「道」の深遠を覗く事の出来ぬ、彼のコン

プレックスが観える。宋之問はこの寒空に遥か山中で松月と対峠する承禎を詠む。

答礼の承禎は、宋之問の遥か彼方、虚空を観て詠む。

「時すでに暮れて節春ならんと欲す」・・・「悵として緬ばくして象粉れんとす」…‥「琴を彈じ

て思い、いよいよ遠し」天の位置、今だ定まらず”象紛れんとす”正に王道危うしです。

承禎は観相および占易に現れた“天子「睿宗」の象が、まさに紛れん”としている、この事を詩に

秘めて詠んだのであります。

いかに宮廷歌人として歴史に名を馳せても、承禎の心の宇宙は宋之問のレベルでは無理である。

いつの時代も姑息な才知、知識だけでは到底「道」は観えない。

満座の宴は、たけなわである”列席した百官と言えど承禎の心を読んだものは一人としていまい”

「節春ならんと欲す」早く、真に承禎の偉大な印文を天に伺い、「寶」制作に着手すべく磐石の天子

が現れんことを詠むだものです。

承禎は既に、武后の娘「太平公主」等の一派が虎視眈々と覇権の座を狙っており、時期の到来が未

だ先である事を観ていたのです。

この時、睿宗に拝謁し、占易の象・彼の観相に象の紛れ、即ち乱れをハツキリ観たのです。承禎の

“思いいよいよ遠し”であります。

“睿宗の短命を既に観相する。

驚異的、承禎の千里眼、占易である。

老子を開祖と仰ぐ承禎、そして彼こそ老子の再来として本書陰極の第六章「老」・日界月界太上か

ら数えて7爻目に配当し、本書「寶」出版以後、漢文化の北斗の巨星として永遠に輝き続けるであろう。