5章「人」・『詩聖』に捧ぐ

 

何十億年の果てしない地殻変動・地球創世の営みから生まれた玉、その玉信仰は洋の東西を問わな

い。それは、太古も今も変わらない大自然の賜りを観詰める自然な感情である。

言い伝えによれば、龍が苦しんだ時、玉を吐くと言う、そして人が真に苦しんだ時“命”を吐くと

言う。

私は、この中央中天の「人」の爻には、中国史に偉大な巨人として姿を現した司馬承禎、その師・
師正、そして道主皇帝・玄宗・父睿宗各人の配当も考慮いたしました。

しかし、歴史の幽玄に自らを秘した司馬承禎はこの後の第六章、幽玄の第6章に譲る事といたしまし

た。現代も昔も常に日の当たらぬ所にこそ‘‘真の人”ありです。

切々と歌に命を吹き込み、動乱の中で“命を吐いた”詩聖杜甫の心情、そして本書「寶」解明に果

たしたの彼の功績に報いるため、敢えてこの五章「人」の爻に掲げるものである

  



杜甫は712年、南蟄県に生まれ、770年没しました。

李白と共に、後世詩聖と謳われた方で、約1,400首の歌が今に残っています。本書「寶」に、

彼の果たした功績は計り知れないものがあります。

何時の世でもそうでしょうが、純情で世渡りの下手な、それでいて真の天才は、なかなか世は認め

てくれないものです。報われなかった彼の労に対して、せめて本書「寶」の中天であるこの五章の

座に特別に配当し、深くその業績を称えるものです。

玄宗に終生、変わらぬ信頼を寄せながら、戦乱に翻弄され貧窮の中で漂白した彼の人生を考える時、

胸に迫り来るものがあります。しかし又、動乱を境にして詠んだ数々の詩は、後世彼の詩人として

の名声を不動のものと致しました。

3章3に載せた「冬日洛城北謁玄元皇帝廟」の描写は、1300年を経たこの「寶の本」に、

神器「寶」が安置された“太微”な廟の偉容を確実に伝えてくれました。

ある意味で、この「寶」の為と言っても過言でない翻弄された彼の人生に報いる為、私の大好

きな彼の代表作を次ぎに掲げ本論に移りたいと思います。

          

 

冒頭に掲げた「憶惜」と「送従弟亜赴河西判官」の詩を確認してください。

天寶の動乱「安史の乱」に神器が奪われたことを、正に詩に詠み痛恨の念を天下に訴えると共に、1300

年を経た我々に、この史実を伝えるものです。彼には、本当に申し訳なく思うが、今の私に、こ

れらの詩を楽しむ時間は与えられてはいません。先を急ぎますが、詩中「憶惜」の一節に・‥洛

陽の宮殿、焼焚し尽し宗廟新たに除す・・・とあります。

正に“宗廟’’は神器「寶」安置の「太微官」のことです。洛陽は血で染まり宗廟は暴かれたのです。

また「送従弟亜赴河西判官」の一節に・・・以て神器を正すに足りる宗廟、尚を灰と為り、君臣、倶

に涙を下す・・・・とあります。

正に神器「寶」が奪われたのです。

この後、私の手元に神器「寶」が記された資料はありません。

かくて「寶」は動乱の中に消えて行くのです・・・。

項末の詩は李白の詩「謁老君廟」(注・老子廟は全国諸州に建立したとも伝えられ、これが太微官を指す

か、必ずしも断定は出来ない)です。

“・・・草合して人足断え、塵濃く・・・空しく・・・松柏の林”です。まさに、この後社甫の絶句「国

破れて山河あり、白春にして草木探し」です。

 この二聖が謳う程「寶」安置の「玄元皇帝廟」は、盛唐のシンボルであったのです。

 『社甫の旅』(文献51)著者が、社甫の詩を“体感”せんとその軌跡を足で辿られ、泥んこになら

ねば、本当の社甫に会えないという記述を拝読し、改めて社甫に感謝の意を捧げるのであります。