第3章3・玄宗皇帝廟(太微宮)
社甫は李白と並び詩仙・詩聖と呼ばれた盛唐の詩人で、青年時代より各地を放浪し、“春望”
などの不滅の詩を残すが、不遇の中に生涯を終えた人です。彼の生きた時代は正に盛唐の
真っ直中、“神噐「寶」の時代”であります。しかも、彼の難行苦難の人生その行脚のなか
で、上記の詩を詠む。社甫は間違いなく約1300年前、神噐「寶」が安置されてあった、
この「玄元皇帝廟」の大伽藍の前にと、いずれ後で明らかにする神噐「寶」の存在を証明する、
正に歴史の証人です。
上記「詩」社甫は歌う。
北極の玄都、北?の廟には“鎮非常”厳重な警備で竹矢来が張り廻らされ、神宮は厳か
に祭祀を司る、廟柱は“一気傍”天まで聳えたつ程であったという。
今彼が立つ、この大伽藍の神殿は昼夜を問わず警護される奥のその又奥の正殿に、神
噐「寶」は鎮座していたのであります。
廟壁には、画聖と謳われた「呉道子」が描き、様々な匠が施されてあったといいます。
日本でいえば、さながら日光東照宮・平安神宮で、そのスケールは、一気傍であるから想
像を絶する大伽藍であったろう。尚、“配極玄都悶”は歌の題、洛城の北、歴代皇帝が眠る
写真の「北ぼう山」です。
北の方角は天印の中央中天“北極星”が輝く“玄”なる所です。下図に示す洛陽・積善
坊に建つ玄宗皇帝廟とは外宮の関係であろう。
社甫の足跡に深い敬意を払わずにはおられません。
図矢印、積善坊は東西470m南北480m総面積225.600u、約75,000坪で甲子園球場の
約5.7倍、京都平安神宮の約3.2倍です。この坊の区画割りの中に、荘厳華麗な「玄宗皇帝
廟」、又の呼称「太微宮」が建ったのです。この坊区に建つ宮は、社甫が謳った正殿に対し、
恐らく外宮に当たるものでしょう。
いずれにしても、この二つの「玄宗皇帝廟」は、
いずれも大唐のシンボル壮大な伽藍であることは間違いありません。当然、臣下は北面で
“君子は南面”「寶」の獅子の正方位で、皇城及び玉座と同じ南面建築です。