第2章4・道教史の謎に観る
開元2年頃、時の皇帝「睿宗」が、道教「茅山派」12代宗師「司馬承禎」(647〜7
35年)を招き“陰陽の術数のことについて下問し、その答えに嘆息さまざまな下賜品を
与えた”とある。
睿宗の後の皇帝「玄宗」も、司馬承禎を宮中に迎えて自ら“法録”を受けました。これ
は「道主皇帝」となった事であります。しかも玄宗は、しばしば彼を召し出しております。
この司馬承禎は、二人の皇帝に会う以前、「則天武后」にも拝謁しているのであります。
彼は三代の皇帝に会っている当時の道教界の第一人者でした。それでいて、後世この人物
像に深く注目した著書は見受けられません。私はこの司馬承禎に、この「寶」と唐代史の
鍵を握る人物として、何かとてつもないものを感じるのです。
大きな足跡を残し道士として茅山派を率い、後世それなりに評価は受けてはいるが、唐
代歴史に果たした偉大な功績を歴史は語っていない様に思えてなりません。
恐らく、彼らの沈黙は老子、荘子を引き継ぐ唐代道家の第一人者としての自負からであ
ろう。この司馬承禎を探し当てたのは天印「寶」を最初に観た時と同じ“勘”のようなも
のです。序章で少し触れた、道教の中の重要な方術の一つに、“気”があります。この気こ
そ、私をここまでのめり込ませた原因の一つでもありますが、現時点まで歩んで来られた
のも、又これからも「寶」の神秘を解明して行く上でも、この気はさらに重要な役割を果
たす筈です。
それはさて置き司馬承禎は盛唐時代、仏教の隆盛期、道教界と帝室を強く結び付け、則
天武后、睿宗、玄宗、三代の皇帝に接見し賞賛を受けた人物です。
老子『道徳経』を刊定し、詩人「李白」とも交友のあった人物です。
そして『座忘論』『天隠子』の序「天地宮府図」の著作などがあります。『「道教」の大辞
典』(文献4・34頁)によれば、その『坐忘論』の中で「道」は“形神を易える”“形は
道に通じ形神は合一する”これ神人と「得道の条」で述べていると言うが、私はこの「得
道」つまり“道”を得ることが、道教の至極、最高の意味であり、“形神”とは天印「寶」
を指したと信じるのです。そして“形神”を“易”える、つまり「寶」を「易」するのは、
天印の印文の易、偉大な神知を語ったと信ずるのです。
『大漢和』に「正一」が載っています。この言葉の訳に、唐の「潘師正」“陶隠居正一の
法”を得て、司馬承禎に伝える“とあります。
この潘師正は唐代の道士で承禎の師です。『大漢和』によれば「正」とは“北斗の第一星
の指すところ”であり、関連語に「正印」は星命家が印綬の兩干を相い配合するものと
あります。
“陶隠”は、即ち“焼き物に隠す”です。
「天隠子」「形神」「合一」「正一」、これらを一つの糸に結び付けて、天才的数術家であ
ったと聞く、司馬承禎の人物像を遥かな唐代に遡って思いを馳せる時、“気”がはたらき、
神噐「寶」を上奏した最重要人物として浮上するのです。
承禎の著した『道徳経』『坐忘論』を、解読する力と時間は与えられてはいません。しか
し例えあったとしても、天隠であり「寶」に直接言及してある筈はないでしょう。しかし
いずれ唐代歴史の中に、その神秘的姿を“必ず”現すであろう。
以上、この項も先の傍証に重なるのです。