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A 北極星
古来の天文学では「北極星」は他の星とは異なり、動かざる星とされ、そこに、宇宙の創造主・天帝「原始天
尊」が宿る星とされた。
北極星は天の北極にある星で、現在は小熊座α星に当たる。
正確には北極からは1度3分弱ずれていると言う。
中国古代の天文に於いて、北極星はその位置が不動で天の樞をなすと信じられ天子の位に喩えられてきた。
しかし実際には地球の歳差運動の結果、位置は変化しております。
『大漢和』によると太子(小熊座γ星)・帝星(同β星)・庶子(五番星)・后宮(同四番星)・天樞(きりん星)の
五星が一直線に並んだ星座を指していう、とある。
要するに、北極星は天地の創造主、象徴の星で、天の子・天子・皇帝の星とされて来た。
即ち北極星は太極・混沌に輝く極「一」の極星で、神噐・太極「寶」は、この北極星を陶磁器で具現した神噐
です。
このホームページ『大和』が目指すのも、この北の夜空に輝く、北極星であります。
それでは、この神噐・北極星・天帝の乗り物であるこのコーナー▼北斗七星に試乗アクセス願います。
平成12年4月21日
B 北斗七星
この『大和』の打ち上げ前の、航行案内図の冒頭に★「神噐」を掲げ、その解説欄に▼七星を配当いたしました。
「北斗七星」の事を『史記』天官書第五に「斗を帝車となし、中央に運り、四郷を臨制す」とある。
帝車とは北極星に住まう天地創造主・天帝の乗り物で、北極を中心にして一昼夜で一回転一年で柄杓の柄は十二方位を指す。
したがって、北斗は天の大時計であり、四季と二十四季の調整を司り五行の輪廻を促すと言う。北斗七星は北極から約30度の距離にある七星で、その配列が斗・柄杓に似ているため、北斗と言う。
これ以上、北斗七星の天の役割など門外漢の私では、到底解明不能でありますので、このホームページ漢大宇宙の羅針盤、吉野裕子博士の『易・五行と源氏の世界』(人文書院)を参照願います。
ホームーぺージ冒頭「大和」で、既に紹介致しました吉野博士の著書『易と日本の祭祀』(人文書院)は、私が7年前、この「寶」の秘めたる神知・想像を絶する混沌の中でさ迷っていた時、まさに出会った天書です。
博士の著書と出会う事がなければ、未だ混沌の中でさ迷い、「寶」の解明は果たせ無かったであろう。
まさに博士は「寶」に秘められた中国古代の「易」および「陰陽五行」の哲理をもって、日本の民俗・風習、神事の数々を照射・解明し、他の先生方の追随を許さぬ日本民俗学の未踏の地を歩まれておられます。
吉野博士の著書の数々は、日本民俗学の先駆者・柳田邦夫先生が、深い濃霧に阻まれ、遂に踏み込めなかった、未踏の世界を次々に解明・登破され、後世の日本民俗学の“寶”となる玉著です。
吉野博士の著書の数々は、諸橋轍次博士の『大漢和辞典』と共にこの漢大宇宙・北極星を目指す『大和』の羅針盤であります。
吉野博士は、「寶」の印文を解き明かして戴いた▲黒川総三先生と共に、歴史的、神噐・太極「寶」解明の“日・月”のお方です。
一度もお会いしていない博士に、『陰陽五行と日本の天皇』(人文書院)で、史上始めて、この「寶」を照射戴き、深いご理解を賜った。
この場を借り吉野博士に、改めて深甚の意を表するものです。
天子・天帝の帝車・北斗に載り“北極星”を標に太極「寶」漢大宇宙へ出発です。
平成12年4月21日
C 『玉璽』
璽は王者の印。天子皇帝の印です。
秦以来、玉を用いて作る。
唐改めて「寶」となす。
「傳國璽」
歴代の天子が寶とした印。
漢の高祖、改め傳國璽とした。
隋、受命璽と改称。
唐・承天大寶とした。
「寶」
則天武后、「璽」改め「寶」とする。
武后の子・中宗「寶」を「璽」に復す。
開元六年 「璽」を再び「寶」とする。
天寶十戴「傳國璽」「承天大寶」と為す。
『大漢和』より
この王者の印である玉璽が唐代、則天武后の時「寶」に改められている。 しかも・その呼称が各皇帝により2転3転している。
王者の印であり・天の子・天子の印が2転3転する事は、歴史を通観して異常な事である。
いづれ、この歴史の闇を明らかにしなければ、この神噐「寶」の謎は解けません。
“則天武后”中国5000年ただ一人の女帝。 中国史に名を馳せる“妖怪”。
白鳥座Xに存在すると言うブラックホールで今も酒池肉林の饗宴を繰り広げていると言う”
いずれは、向かわなければならない歴史のブラックホールです。
全ては、歴史の空白、謎である。
重ねてこれはフイクションではない。
日中の歴史学者および関係者70名余に「寶」本をお送りした。
未だ誰一人本格的、異議、反論を加えた先生いない。
いずれ真実・真理は歴史が証明するであろう。
「大和」は、今日までの歴史家が誰一人、気づく事が出来なかった、歴史の闇にいずれ踏み込むであろう。
平成12年4月21日
D 新旧「唐書」車服志
旧「唐書」200巻・新「唐書」225巻からなる。旧唐書改修して宋代嘉祐年間に成る。
新旧「唐書」車服志に載るこの原文が以後の唐代・神噐「寶」解釈の原点である。
この短い「寶」の記述が後世の歴史書および印章の本などの解釈の間違い、不透明な原因を引き起こしている。
いづれ、神噐・太極「寶」発見により、後世この記述の解釈にも、正しい注釈が加えられ、唐代の天子・皇帝その象徴の玉璽・および「寶」について考証された歴史書・印章史は書き改められるであろう。
平成12年4月22日 平成承禎
E 『玄元皇帝廟』
唐代・唐朝の皇宗は元々「道教」であった。
それは唐朝が「李」姓であり、道教開祖と崇められた「老子」が「李」姓と同姓であったため、唐朝は老子を先祖と奉ったのである。
そして「寶」の印文「太上老君」とは「老子」の尊称であるが、開元から天寶年間の頃、さらに「老子」の尊称を格上げし「玄元皇帝」の尊号を献呈した。
唐代には長安・洛陽という二大都市があった。
この「玄宗皇帝」・「老子」は、唐朝の唐祖であるから当然、祖先として宗廟に奉つられた。
この老子を奉る「玄元皇帝廟」が“天寶元年”洛陽に創建されという。
唐朝の祖先であり、道教開祖の“聖人”を奉る壮大な伽藍である。
いづれ登場する詩聖・杜甫の詠んだ歌によれば、この建物は豪壮華麗かつ天を突く、伽藍であったと言う。
“天寶”元年742年創建なった、この「玄元皇帝廟」が同年「玄元皇帝宮」と改められ、翌743年「太微宮」と格上げ名称された。
名称の“太微”とは、天文では“獅子座”を指すと言う。
『太微宮』の異名は“太極殿”である。
“年号は「開元」改め「天寶」である”
天の寶を年号の冠に戴く、豪壮華麗な神殿は獅子の異名を秘めた「太微宮」である。
我々の目指すのは、天を突く「太微宮」、その神殿の奥の院、その正殿に鎮座する中国5000年の至宝、神噐・太極「寶」である。
まさに「大和」は、波頭を越え、1300の時空を溯り、漢大宇宙を旅するするのである。
今日まで世界中の歴史・冒険家が、だれ一人踏み込んだ事の無い、未知の世界である。
次にこの、漢文化の神秘を旅する母船▼F「大和」概要と▼G「運行マニアル」をお知らせし、旅の安全確認を致す事にします。
平成12年4月23日
F 『大和』
このホームページはインターネットを通じ世界に発信される。
従って、この宇宙船DIKN「大和」命名に至る経緯と「大和」の名に託した私の願いをお伝えしておかなければならない。
既に『大漢和辞典』の「漢」は天の川その「大」が大漢宇宙であり、そこからこの宇宙を旅する艦船の名を「大和」と命名した事はお知らせした通りです。
一時日本の子供達に人気のあったアニメションに「宇宙戦艦ヤマト」がありました。私の息子も大ファンであった。
しかし東南アジアの国々には、第二次世界大戦の戦艦大和を思い起こされる方もおられないとも限りません。
その様な、気遣いもあり、ここで『大漢和』からの命名以外、私の思いを少しお伝えしておきたいと思います。
さて、この神噐「寶」が隣国中国で誕生(742年)する以前の飛鳥時代、当時は日本を「倭」と記していたが、元明天皇(和銅・708年)の時「倭」と通じる「和」の文字に「大」を冠じて国名を「大和」と定めた。
この飛鳥〜奈良時代の頃の日本は人間に例えれば、まさに若々しい青年期、先進の大陸文化を吸収せんと命をかけ海を渡った時代です。
そして天皇を中心に国作りに、一丸となった時代であります。 「大和」の「和」の文字には「穏やか」「やはらげる」「仲なおり」「許す」「したがう」「合う」そして“平和”の願いが込められてあります。
その様な意味でも、発見されたこの漢文化の至宝を、母国・中国政府に返還する平和の使節艦船として命名いたしました。
「大和」艦船の旗印・シンボルは当然・獅子です。
それでは「大和」▼G『航行マニアル』を確認戴き、母船大和に搭乗ください。
平成12年4月24日
G 「大和」航行マニアル
このホームページ「大和」は、本年・2月中旬、陳健駐日大使に宛てた『訴状』により中国大使館文化部・頼育芳氏より直接の電話を戴き、そして翌日・千葉成徳大学客員教授・王敏博士、そして北京歴史博物館館長から手紙を戴き、「寶」神知が、まさに海を渡ったのを確認した後の、平成12年3月15日から、このホームページ「大和」建造に取り掛かった。
母船「大和」本体と、この航行マニュアルまで、約1ケ月、昼夜を通し突貫工事でキーボードを叩いて来た。
ホームページ「大和」打ち上げ予定日は平成12年5月19日予告発信、そして15日後の6月3日に世界に発信する事を既に決心致しております。 神噐・太極「寶」解明・立証と、関係作業に、7年の歳月、約4万時間を費やした。
門外漢と言うより全くの素人が無謀にも乗り出した漢大宇宙であった。
再び向かう事は無い道と、この7年間、深い意識の底で考えていた。
しかし、昨今、次々に飛び込む暗澹たるニュースが、封印した筈の私の扉を叩く・・。
そして現下の大恐慌、混迷と混沌の時代、周囲の強い働きかけ、そして周囲の強い進めもあり、意を決し再びコースを変え漢大宇宙・太極圏に乗り出す事を決意した。
約1300年前、この奇跡の印文を創造した、謎の大宗師、司馬承禎は、古代から伝わる★(51)『天書』として後世のため印した。
『天書』とは、世に対する“警告の文言”でもある。
私の現下の世相に対する強い思いは、この漢大宇宙の旅路の合間に、折りに触れお話しする事も有ろうかと思うが、今はとにかく、この「大和」の概要と航行マニアルを説明するに止めておきます。
搭乗の皆様には、この★(1)『神噐』のコーナーが終了したら、★(2)の「太極」〜★(55)『降臨』、ホームページ「大和」本体を順を追ってアクセス願います。
その間にアクセスしても、開かない★惑星そして閉鎖印しの▲マークの星々と遭遇いたしましたら、▲を飛ばして次にアクセス願います。
工期の無さと工事の遅れです。全ては計画の無さ、突貫工事のためです。
重ねて各★惑星コーナーにはアクセスする▲▼の印しがしてあります。▲印しは閉鎖▼は開かれたコーナーです。
しかし今は時間が無くが殆どが▲の閉鎖印しになると思います。
いずれ、アクセス戴く皆様の期待に追いつくよう、夜を徹してガンバルつもりです。
また、末尾の日付が示す通り、余りに突貫工事のため、未チェック・誤字脱字など添削時間の余裕がありません。
「寶」本もそしてこの「大和」も全て自力航行しか、道はありません。
スタッフも資金も無く致し方ありません。
このため、今年一杯程は、未チェックのまま航行を余儀なくされそうで、途中修正工事も想定されます。
この事をあらかじめ、搭乗の皆様にご了承戴き、★(2)『太極』へお進み下さい。
我々の住む宇宙は、現在も膨脹を続けております。
したがって、このホームページの、閉鎖された★銀河や▲小惑星も、いずれ開かれ“天が私を許す限り”この漢大宇宙も果てしなく膨脹し続ける筈です。
“歴史は未来を観る座標軸”です。
神噐・太極「寶」の旅は、貴方の未来を観る旅でもあります。
この漢大宇宙への旅は、全ての人の“希望”への旅立ちであります。
平成12年4月30日
〈航行注意事項〉
※なお、「大和」本体、最終★(55)『霊符』まで読み進まれた方は、今後このホームページ「大和」航行の運行計画一覧表、★(53)『惑星一覧表』にて航行願います。
漢大宇宙航行計画表である★(53)『惑星一覧表』の☆★▽▲◎マークを順次アクセスし漢大宇宙を旅して下さい。
平成12年5月19日