第五章(二)『印の一考察』

 

 中国文明の中で印章が果たす歴史的意義や重要性は、過去多くの著書に著されてきまし

た。それで本書ではあらためて触れませんが、この驚異的印文を発明した天才が、何故こ

の完璧の文言を印と言う“道具”に印籠したのか考えてみたいと思います。

もちろん本書でも触れましたが、道具とは道教の真理“道”を“具現化”したもの、それ

が「道具」であります。

しかも、本書で次々に現される“神知”を印籠し隠秘するに格好の道具であることに違い

ありませんが、そこにはもっと深い理由、道教の「道」の真理が、そこに厳然と示される

からと思うのです。

 私は道教の“神髄”を「印」と言う「道具」が有する“本質”によって満たされるから

であろうと考えるのです。

それは老子の説く「道」の本質的命題を、太古に「印」と言う道具が“発明”された“瞬

間”から、厳然と印が有している道具としての道理を発見したからであろう。

 老子の思想に貫かれる中心命題、それは“無為”“自然の道”であろう。

印が印籠する、その必然の命題と老子の哲理について、ほとんど無反省の思考の中で、印

の道理と道具の関係を考えてみる。

 

 「無為」とは、「無が為す」であり、“無”の“はたらき”のことです。自然は四季うつ

ろい、刻々彩りながら、その姿を化えます。即ち、無は無にして、無に有らず、虚無の無

では無いと言うことでしょう。印そのものの実体は“有”であるが、「印字」は文字の実体

を生み出す為の“逆の象形”です。

文字本来の象形の意味も、「言葉」の意味も実体も無い、“虚”そのものです。

 印に刻まれた象形を、「噐」内部から万一見る事が出来たと仮定した場合、それは“無”

であるが、我々の側から見る象形は“虚”です。

虚と無“表裏一体”の「虚無」であります。

 そして、その虚の象形が印泥の“交合”により投写された“瞬間”、「無」の実相「有」

を現すのです。

 「無」は無限の無を秘める無であり、「虚」の無ではありません。

無限の「有」を生み出す為の偉大な無なのです。

 この印と言う道具が、発明された遥か無限の彼方より、必然の「道」の中に漢大宇宙は

“無為自然”に存在していました。

 この「寶」の印文を発明した天才司馬承禎道士は、「印」と言う道具の“宿命”の中に無

為自然の道理を悟り、璽あらため道教の法印「寶」となしたのであろう

この道の具の、道理は“陶印正一”の法を伝授した承禎の師、潘師正です

その道理に奇跡の「九文字」を発明して玄宗皇帝に奏上したのが司馬承禎です

 

まさにこの中国5000年の「寶」、その“道の具”に厳然と存在する“表裏一体の関門”こ

そ、漢大宇宙“太極”を開く“登龍の門”です。

 太極「寶」の神知は、太古より神の化身と信じられた漢字、その表裏の内なる玄に天隠

されてあるのです。

 「寶」創造を上奏した天才司馬承禎は、時の玄宗皇帝に「道」とは“具体的”にどの様

なものかと尋ねられた時、この「寶」の、道の具としての宿命を引用して「道」を説いた

と考えるのです。

 ここに「寶」が玉や鏡でなく、印たらんとする必然を観るのです。

平成1937