神器・太極「寶」日本国内の証人と傍証
歴史の証人<吉備の真備> (資料インターネットより)
吉備の真備は現在の岡山県倉敷市真備町出身。霊亀2年(716年)遣唐留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐した。 帰路では種子島に漂着するが、天平7年(735年)に多くの典籍を携えて帰朝した。 唐では経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などを幅広く学び、帰朝時には経書 (『唐礼』 130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦』 (測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃 纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを 献上し、『東観漢記』をもたらした 孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750年)には藤原仲麻呂が専権し、筑前守次いで肥前守に 左遷される。天平勝宝3年(751年)には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年(752年)に再度 入唐、阿倍仲麻呂と再会する。その翌年の天平勝宝5年(753年)に、鑑真と同じく屋久島 天平勝宝6年(754年)には正四位下★①・大宰大弐に叙任されて九州に下向する。天平勝宝8 歳(756年)に新羅に対する防衛のため筑前国に★②怡土城を築き、天平宝字2年(758年)に大 宰府で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受けた。その後、暦学が認められて、儀鳳暦に替えて 大衍暦が採用された。 |
<承禎・歴史を開く>
吉備真備は717年に入唐して、大唐の律令その他、上記の通り、あらゆる事を貪欲に
学び、多くの典籍を携えて帰国した。
遣唐使の渡航は、成功率は30~50%と云われ、まさに命を懸けた航海である
真備の最初の遣唐使仲間に、阿倍仲麻呂がいた
そして752年、真備は遣唐副使として再度入唐を果たした。
真備は長安でまさに約17年ぶりに仲麻呂と再会したのである。
真備・仲麻呂この2人こそ、当時の日本国の命運と、神器・太極「寶」のまさに最重要
キーマンである。
再会した二人に積もる話は尽きない、まさに肝胆相照らす仲の、二人は再会したので
ある。
約35年間、唐に居残った仲麻呂は、中国の最難関の科挙試験に合格し、神器「寶」
焼成を勅令した皇帝玄宗の、熱い信任を受け、唐朝の中枢で活躍していた。
科挙試験に合格した仲麻呂は、唐の官僚からすれば、日本国から来た異邦人である
いずれは帰国する異人で、徒党を組んで陰謀をめぐらす存在でも、また出世を妬む、
競争相手でもない、
唐朝の政権の中枢にいても、どの派閥にも組みしない、安全パイの同僚である。
したがって仲麻呂の処には、官僚、宦官、女官等から、唐朝の裏情報、後宮の情報、
政権内のきな臭い噂、その他、あらゆる情報が彼のもとに集まる。
仲麻呂は唐代を代表する詩聖李白や・書家の王維ほか超一級の文化人とも、幅広く
親交を深めていた
また玄宗皇帝から晁衡と云う中国名も賜るほど重用され、楊貴妃は勿論、「寶」の
運命担った宦官高力士、そして「寶」の九文字を彫り上げた李含光とも親しく接してい
た。
玄宗の寵愛を独占していた楊貴妃は、歌舞音曲に優れ、頭脳明晰と云われ、好奇心
旺盛な才女であった。
遥か西方・サマルカンド出身の巨漢安禄山にも興味を示す彼女である、当然、蓬莱、
海の彼方の、遠い日本国の事にも興味津々であったであろう。
最難関の科挙に合格するほどの英才仲麻呂を呼び寄せ、日本の山河、紀行風土、そ
の他多くの分野に、目を輝かせた事は想像に難くない。
再会した真備に、自身の栄達を知らしめるには、真備を玄宗皇帝そして楊貴妃に引き
合わせる事である。
仲麻呂は、玄宗・楊貴妃と親しく接せられる自身の栄達を、真備に大いに自慢しただ
ろう。
そして742年元号を「天寶」とした大唐挙げての盛大な神器・太極「寶」奉納式典の凄
さを、仲麻呂は詳細に話したであろう。
仲麻呂は、玄元皇帝廟に奉納される大唐挙げての神器・太極「寶」の祝典を百官と共
に参列していたのである。
元号を「天寶」と改め、神器「寶」奉納式典は全国民挙げての大祝典である。
まさに仲麻呂は承禎の知る限り神器「寶」の、日本人で只一人の歴史の証人なので
ある。
在唐、35年の仲麻呂の元には、唐朝の表裏は勿論、シルクロードからもたらされるあ
らゆる情報も勿論集まっていた。
帝都・長安・洛陽の状況、そして「寶」安置の、大伽藍玄元皇帝廟、はては万里の長
城・広大な黄土高原・そこで働く、節度使軍団まで話は及んだであろう。
当時4500万人と云われる人口の食器や生活雑器に使用され、天下に貴賤無く使用
されたと茶経に記された唐白磁を焼くための、黄土から切り出されるおびただしい松
の木材の事。
神器「寶」焼成材の、黄河上流からの長蛇の筏の列と、白松の根、活況を呈する大唐
の経済状況も仲麻呂は、詳細に説明しただろう。
真備は入唐早々、仲麻呂と連日連夜、夜を徹して話し込んだ事は間違いない。
勿論17年前と様変わりした、帝都長安洛陽、続々建設される近州の老君廟・開元寺、
まさに有史以来繁栄する大唐のバブルの象徴群を仲麻呂は嬉々として案内しただろ
う
その仲麻呂から飛び込んできたのが、節度使安禄山反乱の可能性有りとの、衝撃的
な情報である。
真備は、この話に、くぎ付けになった。
拝謁なった真備の目には、政務を閣僚らに任せ 太平を謳歌し楊貴妃にうつつを抜かす、玄宗の観 相に、危機感は全く感じられなかった。真備は仲 麻呂の安禄山の深刻な話に、この先の大唐の運 気に、大きな暗雲を抱いた。 真備の滞在の目的は、最早安禄山の動静それ一 点に絞られた。 その頃、玄宗の寵愛を受け、栄華を極める楊貴妃 であっても、後宮の日々は退屈で一日は長い。 |
そんな貴妃は、二度の入唐を果たした真備から蓬莱国、最新の和国の話に目を輝か
せた筈である
叶わぬ願いであるが一度は渡ってみたい、そう思っても不思議では無い。
栄華を極める楊貴妃には、差し迫る波乱の運命を知る由もない。
牡丹の花と謳われた美貌と、好奇心旺盛・頭脳明晰な貴妃に、真備とて脳裏に強烈
に焼き付けられた筈である。
同時に楊国忠等に疑われていた安禄山の謀反の嫌疑は、戦略家である真備にとっ
て最大の関心事である。
安禄山が楊貴妃の養子になった事情、そして安禄山が自由に後宮に出入りできる裏
情報や後宮から漏れる楊貴妃とのただならぬ噂は、仲麻呂を通じ刻々もたらされる。
勿論仲麻呂は真備に情報を隠す必要性はゼロである。
集まった、知り得る限りの情報を直接流す。
安禄山が平慮・范陽・河東の三軍、18万の節度使になったのは751年である
まさに、安禄山は強大な軍事力を手中にしていたのである。
真備の2度目の入唐は752年、帰国が754年、海路と陸路の日数を勘案すると、在唐
期間は実質1年少々である。
まさに安禄山が謀反を起こすのではないかと疑われていた暗雲の真只中である。
真備と仲麻呂は、三軍を預かる節度使・安禄山の度量と軍事力、そして謀反を起こす
可能性を、徹底討議した筈である。
そして二人は、間違いなく反乱は起きるとの確信に達した。
さらに、巨魁安禄山の底知れぬ野望を考える時、日本への来襲まで想定して、徹底し
た情勢分析をした事は確実である。
玄宗の仲麻呂への信認は熱い。
|
仲麻呂を通じて直接真備が、安禄山を紹介された事も、十分ありうる もと商人で数ヶ国語に通じ、底知れぬ野心家の安禄山であ る。腹の中の野望からは、当然蓬莱日本も、大いに知ってお かねばならない。安禄山・真備・仲麻呂の三者の野望と思惑 で、接点は十二分である。 記録は知らないが、疑いを懸けられた安禄山が、仲麻呂から 自身の二心の無い気持ちを玄宗に訴える為、側面援護を請 |
真備は小隊を率いて入朝した安禄山率いる屈強な軍団を見て、目を見張った筈であ
る。
黄土高原の大森林地帯で30年間、「寶」焼成燃料の松の木と格闘してきた、兵卒の
眼光と体格、そして規律に、日本の防人とを比較し、真備はただならぬ恐怖を覚えた
筈である。
勿論、仲麻呂から、黄土から運び出される松の木材が唐朝に買い取られ、開元寺・老
君廟建設に充てられる事も、知らされていた。
もちろん、それらは18万の節度使傭兵の日当と牛馬8万頭の飼料代に充てられる。
安禄山はソクド系と突厥系の混血で、もとは商人で、狡猾かつ能弁、強烈な個性の野
人である。
200キロ近くの巨漢で、遠くからみても、一見して分かる巨魁、強烈な個性の持ち主で
ある。
仲麻呂を通じて能弁・狡猾・底知れぬ安禄山の人物像は、真備の脳裏に強烈に焼き
付けられ筈である。
真備と仲麻呂は、玄宗や唐朝官僚などと違い、唐朝の直接の当事者ではない。
暗雲渦巻く唐朝の全体を眺めた二人の英才の、観察眼は鋭い。
真備が帰国したのが754年で、安禄山は、その10年前から幾度も、反骨・反乱
の相ありと疑われていた。
真備は唐朝の不穏な情勢を冷静に分析し、反乱の起きるのを、ほぼ確信した。
その為真備は仲麻呂に後事を託し、予定より早く滞在を打切り、早々に帰国を願い出
たのである
前回は18年間在唐したが、今回は2年、しかし陸路海路を差し引くと、実質1年であ
る
2回目の遣唐使としての入唐の最大の収穫は得た。
急がねばならない
安史の乱勃発は、真備が帰国した翌年の、755年11月である。
まさに歴史の大きなスパンからみれば、まさに間一髪であった
楊貴妃が馬嵬で危機一髪、難を逃れたのが、翌年756年6月である。
愚生はこのような視点での研究書物を知らない。
人類の至宝・神器・太極「寶」の歴史の扉を開くため、更なる歴史の謎に踏み込んだこ
の小論に、日本中の中国史の研究家のご批判、そしてご意見を仰ぎたい。
更に次項、インターネットによると、そんな真備に、楊貴妃に纏わる実に興味ある、遺
物が日本国内残されていたと云う。
それは真備の母親の墓碑に刻された楊貴氏と云う銘である
それを神器「寶」と楊貴妃の流転を知らない、歴史研究家は単なる当て字と解釈し
ている。
それでは神器「寶」の更なる傍証、歴史の謎に踏み込もう。
<真備の母親の墓碑> インターネット転載
真備・楊貴氏之墓 吉備真備
インターネット稿
銘文中の「楊貴氏」は狩谷棭斎の『古京遺文』(後述)以来、「楊貴」を「やぎ」と訓み、 『新撰姓氏録』等に載せる八木氏出身の女性で★③「八木」の好字として「楊貴」を当 てたものであろうとするのが通説となっている。その場合、楊貴氏という女性は八木 氏の中で宇智郡に住した一族に属し、この古墓は真備が母の出身地に埋葬したも のと推定されるが[9]、そこから或いは真備の父圀勝の結婚生活は妻の生地に近い 畿内で営まれ、真備自身も朝廷に近い地で生まれ育ち、地方豪族出身者が中央で 活躍する際の条件となったのではないかとの推測も可能となる[10]。 また「八木」に「楊貴」字を当てた理由としては、これは楊貴妃(楊玉環)に因んだ好字 で、真備を初めとする当代知識人の唐文化に対する憧憬を示す事例でもあると説か れもしたが[11]、「貴妃」とは唐の官名で「楊貴妃」とは「楊氏の貴妃」の謂、玉環がその 位を授けられたのは天宝4歳(745年)、日本では天平17年に当たるため、天平 11年の墓誌が「楊貴妃」を元にしたとは考えられず、玉環が貴妃となった後に楊貴氏 の改葬等が行われ、その際に本墓誌が副葬されたものであったと仮定しても、「貴 妃」は2文字で初めて意味を成す官名なので真備程の知識人がそうした意味を成さ なくなる借字をするとは思えず[12]、更に真備が自らの官位を天平11年当時に遡って 刻んだとも考えにくいため(一般的には改葬時点での官位が記される)、この用字は 単なる偶然であったと解するしかない |
インターネット稿
上述延見寺について、楊貴氏はこの寺で晩年を送ってそこで死去したために 境内に営墓し、後に寺もろともに埋没したという伝えがある[22]。一方、日本各 地に安史の乱を逃れた楊貴妃が流着したとの伝承を持つ地があり、 山口県大津郡白津具村(現長門市油谷)の旧家八木家には楊貴妃が同村に 漂着して死歿し、その子孫が「楊貴妃」に因んで「八木」を家名としたとの伝が あり、それは中世以後に楊貴妃漂流譚が発生し、八木氏の起源をその漂流 譚に附会させたものと思われるので、延見寺の「老後の楊貴氏」も実は「老後 の楊貴妃」で、同寺に楊貴妃漂流に関する伝承があり、更に当地に八木氏が 居住した記憶があったために「八木氏」と「楊貴妃」を関連づけて説かれるよう になった伝承ではないかとの憶測ができる[12]。また、上述のように 「楊貴氏」の好字と「楊貴妃」とは無関係の偶然としか解せないのであるが、そ う見るには「なにか割りきれぬ点もある」[9]。 |
<承禎・歴史を開く>
上記①枠の[単なる偶然であったと解するしかない]
②枠の下二行、{偶然としか解せないのであるが、何か割り切れぬ点もある}
②枠末尾、「何か割り切れぬ点もある」まさにその通りである
何故、真備の母親の墓碑に「楊貴氏」の名が刻まれてあったのか
楊貴妃が天草に上陸し、高力士から手渡された神器「寶」を身分証明品
として大宰府の使者に渡され、そして真備の元に届けられた。
“楊貴妃渡来は即、安禄山の反乱”である
真備と仲麻呂の予感は図星、まさに的中した。
真備は楊貴妃に儀礼を尽くして直接会うべきであるが、今は安禄山来襲に備え
ることがまさに急務であった。
怡土城築城は、白村江で新羅と大唐軍に大敗した歴史の記憶では無く、真備が
最も恐れていた、まさに安禄山の来襲への防備である。
屈強な精鋭、節度使軍団は今も目に焼き付いている。
真備が朝廷に願い出、大宰府に向かったのは、大陸からの来襲、その防衛体制
の構築が最重要目的であった。
断っておくが、後の菅原道真の様に、左遷されたのではなく、真備自身が願い
出たものである。
渤海国の大使小野田守から安禄山の反乱の情報がもたらされたのは758年です。
真備が大宰府怡土城の築城に着任したのは756年で、渤海の情報はその2年後
で、既に築城の最中である。
大宰府下向は真備が大陸からの来襲の危機を具申し、自ら申し出たのである。
50%以下の成功率の遣唐使の役目を果たし、日本国の国難の危機に備え、人類の至宝
「寶」を確保した真備の、今日の歴史的評価は小さい。
いずれにしても築城時の真備の胸中は忸怩たる思いであったろう
日本に辿り着いた楊貴妃には日本国内の情勢は分かる術も無い。
楊貴妃のもとへ大宰府からの連絡は半年以上過ぎても無い。
そして遂に、天草を立った楊貴妃は山口県長門沖で難破し、油谷湾に漂着し、
村民の介護空しく、あえなく当地で亡くなった。
楊貴妃の亡骸は現在の長門市油谷、二尊院に祀られてある。
油谷と大宰府は海路では近いが、楊貴妃が油谷で亡くなったことは真備には即
座には分からなかったであろう
数年内には楊貴妃が亡くなった情報は真備の知るところとなる。
真備にとって痛恨の極みであったろう
真備の母親の墓碑に「楊貴氏」の贈名が刻まれたのは、真備の痛烈な悔恨であろう 遣唐使として20年以上、郷里を離れ、親不孝をした。 「楊貴」を「八木」の当て字と解釈したことは「寶」と 楊貴妃渡来の確証の無い研究者として、致し方ない見解 である。 承禎の見解は、最愛の母親の贈名に楊貴氏と戴冠し、儀 礼を欠いた楊貴妃への悔恨の情を、重ね合わせ刻んだと 解釈したい。 |
真備の歴史に刻した母と楊貴妃二人への敬慕である
命を懸けて二度も遣唐使としての役目を果たした国士無双・真備の歴史への
矜持、小憎い痕跡である。
以上承禎の推論のご批判を待ちたい。
<中国国内歴史の傍証>
同封別紙資料の通り、中国唐代の神器「寶」の傍証は圧倒的である
歴史の証人、杜甫、李白・玄宗・潘師正・司馬承禎・睿宗。
玄宗皇帝の「寶」の韻文を秘めた数々の尊号その他
歴史の物証・得一元寶・順天元寶の銅貨と唐白磁の神器「寶」
更に別紙傍証には、印面を篆刻した李含光、また平頂山市の窯場・不毛の大地
となった黄土高原、絶滅危惧種となった白松・さらに山西省天台庵の構造材の
白松は載っておりません。
中国に一度も旅行していない承禎です。
CD製作と、更なる傍証の追加にはインターネット時代を待たねばなりません
でした。
<日本国側の神器太極「寶」の証人>
吉備真備・阿倍仲麻呂
「寶」を受け取った孝謙天皇・光明皇后
<日中に跨る歴史の証人>
「寶」を携え天草に上陸した楊貴妃
<確認された神器「寶」・日本国内の傍証>
★①天草の字地名と楊貴妃渡来伝承
★②山口県長門市油谷・二尊院の楊貴妃の墓と古文書
★③熱田神宮の楊貴妃伝承
★④秩父法雲寺の楊貴妃の鏡伝承
★⑤京都泉涌寺の楊貴妃伝承
★⑥安禄山襲来に備えた真備の怡土城築城
★⑦吉備真備の母親の貴妃氏の墓銘
★⑧楊貴妃の油壷伝説・初花の肩衛・
★⑨地球上に一点も無い焼成不可能な「寶」不動の物証、
★⑩唐白磁「寶」の紐・白澤の意匠と、大極奇跡の韻文の物証
<今後期待される日本国内の傍証>
★⑪奈良七大寺献物帳
★⑫足利義満・義政の所蔵目録帳
★⑬信長収蔵目録帳・関係古文書
★⑭秀吉収蔵目録・関係古文書
★⑮前田利家収蔵目録・関係古文書
★⑯富山藩収蔵目録・関係古文書
<承禎の所見>
神器「寶」の出現により、上記①②は一挙に史実として確定した。
また③④⑤⑥⑦もその外堀を埋める有力な傍証として浮上して来た。
しかし決定的かつ不動の物証は⑧⑨⑩の、地球上に一点も無い焼成不可能な神
器・太極「寶」です。
日中不動の物証・神器・太極「寶」
人類史上、未曾有の陶磁器、神器・太極「寶」、そして印面に刻された九文字は、
唐代道教茅山派司馬承禎が考案し、その弟子李含光が彫り上げた太極の韻文で
す。
神器「寶」は、日中の学者何人も論破できない不動の物証である。
今後、期待される★⑪~⑯の各々の古文書、所蔵目録・各武将の往復書簡など
の調査により「寶」の決定的傍証が現れる可能性が高い。
例えば、古文書・書簡等に「中国獅子の印鑑」「獅子の石印」「獅子の玉印」「白
磁の獅子印」などの文字の発見が期待される。
それらを期待しなくても唐代歴史の傍証が完璧に「寶」の史実を指し示してい
ます。
そして今回この稿で示した★①~⑩の傍証で、日本国内の80%証明を終えた筈
です。
今後★⑪~⑯に{寶}の存在を示す記録が発見されることはあっても、逆に否
定する記録は皆無です。
中国唐代の圧倒的傍証と証人・物証、そしてこの小論で示した日本の傍証と不
動の「寶」の物証です。
もはや、愚生の能力も精根も限界です。
★⑪~⑯の検証は、はなはだ申し訳ないが、日本史を研究する諸先生各位にお
任せするより致し方ありません。
神器「寶」本と制作CDそしてこの小論に枝葉な錯誤はあっても歴史の太脈・
大本に、200%間違いはありません。
先学各位のご批判、ご教導をお待ち申す次第です。
<平成承禎の希望と悲願>
✿天草市・長門市・真備町・氷見市の姉妹都市
✿映画史上始まって以来の壮大な神器・太極「寶」の映画化である
制作には日本・台湾・中国・ハリウッドの合同制作を期待したい。
神器・太極「寶」のスペクタクル
第一部 ☆則天武后・潘師正・司馬承禎と皇帝睿宗の序章
☆「寶」焼成開始と節度使軍団の黄土高原侵攻開始
☆玄宗・楊貴妃・安禄山・高力士・登場
第二部 ☆遣唐使阿倍仲麻呂・吉備真備・玄肪の初入唐の17年間の苦闘
☆白松根絶と老君廟・開元寺建設・李白・王維
☆「寶」焼成の現場と宗師李含光の篆刻の模様
第三部 ☆仲麻呂と第二回目入唐の真備の苦闘と安史の乱の序曲
☆安史の乱の戦場、玄宗蜀への脱出と馬嵬・
☆楊貴妃揚州潜伏と日本への脱出
第四部 ☆楊貴妃・天草上陸そして長門漂着、
☆吉備真備怡土城建設と大宰府
☆孝謙天皇・「寶」奈良七大寺献物と真備の東大寺建立
第五部 ☆足利義満・義政の東山文化と北山文化
☆織田信長の名物狩り・天下取りと本能寺変・秀吉の醍醐の花見
そして加賀前田利家・富山藩への流転
☆そして現代日本・CTスキャン&陶磁器鑑定&「寶」本検証
まさに映画史上に残る、中国大陸・日本に跨る1300年の壮大な歴史映画です。
映画の題名はレッドクリフのように英語の題名が欲しい。
実現なったら、題名は加瀬光圀公にお願いしよう。
以上、これにて歴史の大任を果たした。
「寶」本・CDそしてこの小論により漢文化圏の何億冊の歴史の教科書、関係
書籍が書き換えに迫られている。
神器「寶」は、世界の国宝を眼下にする、人類史上未曾有の「寶」です。
歴史文化は人類共有の財産です
神器「寶」は日本文化の威信を懸けた戦いであった。
残り2日で「令和」を迎えます。
先学各位の、ご批判とご教導を謹んでお待ち申す次第です。
平成31年4月29日